『捨て熊』

 その日、彼女はずっと大切にしていた熊のぬいぐるみを捨てた。アメリカの昔の大統領に由来のある有名なぬいぐるみで、売ってもそれなりの値段になったに違いないけれど、もちろんそんなことを口にはしなかった。現実的な女性ならば買取をしてくれるアンティークショップにでも持っていくだろうし、彼女だってそれは分かっていたと思うだろう。僕は何も言わず、立ち昇る煙を眺めていた。微かな風にそよぎながらも、煙は穏やかに昇っていき、少しずつ薄れ、冬空に融けていった。

「他の誰の手にもね、渡ってほしくないの」

それはあの男のことを言っているのだろうと直感した。そしてそれが正しいことは、すぐに判明した。

「わたしはね、彼をすごく傷つけてしまったんだな、と思う。あんなに純粋で、心がきれいな人を。わたしのことをすごく考えて、大切にしてくれたのに。本当に彼に謝りたいことでいっぱいだし、できることならやり直したいよ。でもね、それができないのなら、彼はこの後誰にも付き合ってほしいとは思わないし、他の人との幸せを願うなんてわたしにはできない。すごく自分勝手でエゴだとは分かっているんだけど」

「エゴでいいと思う。だからこそ求めることができるし、そりゃもちろん傷つけてしまうことはあるけれど、きちんと愛してあげることだってもともとはエゴであると思うんだ」

「でも彼は違うと思う。エゴとかじゃなくて、純粋にわたしを想ってくれた。ちゃんとわたしを大切にしてくれていたのに、わたしがちゃんと理解して、与えてあげることができなかったの。求めるばかりで、押し付けてばかりで……」

そんな人がどうして彼女と別れることにしたのか。本当に純粋な愛情だけでエゴがないというならば、彼女に別れを告げることなどしないのではないか。そもそも、「すごく考えて大切にする」ことに疲れてしまっただけではないのか。彼女のわがままをどんどん受け入れてスポイルさせて、抱えきれなくなったらさよならしたのではないのか。そう口に出そうになるのを抑えた。たとえ僕の思うそれが真実であったとしても、だからなんだというのだろう。

「やり直したい。やり直して、ちゃんとわたしも与えてあげたい。純粋に、彼をちゃんと愛してあげたい」

 

 春と呼ぶには早すぎる寒い冬の終わり。季節によってはバーベキューなどで賑やかな渓流沿い、この季節にはさすがにひと気はない河原に僕らはいた。幼馴染の彼女からの、ひさしぶりの深夜の連絡。内容を聞くまでもなく、男と別れたのだろうと分かった。深夜の連絡は、そんなときくらいしかないのだ。

「水のきれいな、流れのあるところに行きたい」

 彼との別れの経緯を一通り話した後、彼女は言った。

「まだタバコやめてないよね? ちょっと、お願いがあるんだ」

 

 今までのいくつかの彼女の失恋を知っている僕でさえ、どうして今回熊のぬいぐるみを捨てることにしたのかは分からない。そもそも彼女に別れを告げた彼と熊のぬいぐるみとの因果関係だって思い浮かばないのだ。しかし今、彼女は子供の頃から大切にしてきた熊のぬいぐるみに火をつけている。恐らく僕よりも彼女の成長を見守り続けてきただろう相棒とも言うべき存在に。

「だけどさ」

と僕は話を続けた。

「だけどさ、やり直したいというのもエゴじゃないの? 今できる、純粋に彼に与えてあげられることって、別れを決めた彼の意思を尊重することしかないんじゃないかな」

言うならば、彼女はとても崇高な、非常に純度の高い「想い」のようなものを求めていた。自分にも、もちろん相手にも。愛とか恋とか表現されるものの中でも、もっとも純度の高いものを。それは昔から変わらない。別れた相手の幸せを願うことなんてできないと彼女は言う。色々な考え方はあるにせよ、それだってとても純度の高い「想い」である。

「このコ、ね。この熊ちゃん」

唐突に彼女は話を変えた。

「このコはわたしのエゴの固まりなんだ。ずっとずっと、求めすぎて凝り固まってしまったわたしの想いなんだ。うまく言えないけど、このコが居たから今までずっと頑張ってこれたんだけど、だけどもうわたしはこのコと別れなくちゃいけないんだって、今回すごく感じたの。もっと強くならなくちゃって。自分の中にある純粋じゃないエゴもちゃんと認めていかなきゃって。わたしが求める想いがとても貴重なものなら、なおさらね」

既にぬいぐるみは、ほとんど原型を留め置いていない状態になっていた。小さくなっていくそれはもはや火につつまれたただの塊であった。

「ちゃんとね、納得できるようになったらまた彼に会いに行こうと思うんだ。やり直せるかどうかなんて分からないし、それまでわたしが彼を想い続けているかもわからないけど」

「そうだね。僕もそれでいいと思う」

 

 ぬいぐるみの残滓を川の流れに汲めていく。それほど強くない流れの中にさらわれていき、すぐに見えなくなっていく。ほぼ灰の状態であったそれらは、しかしそれでもこの流れのどこかに存在しているのだろう。大気に融けた煙もしかりだ。僕ははっきりとそう意識していたし、彼女もおそらくそのとき同じことを考えていただろうと思う。空は高く、流れは穏やかな冬の日だった。