『上毛かるた写真館』補足ブログ

『払い下げから復活、復元「高崎城址・東門と乾櫓」』補足
『群馬県指定重要文化財 高崎城乾櫓』案内板の引用
(リンク元更新日:2014.12.3)

高崎城の本丸は、烏川の縁りに近いところ(現在の日本たばこ産業倉庫、NTT別館付近)に土塁と塀をめぐらし、その四隅に、西側の土塁の中央に建てられた三層(三階建て)の櫓を取り囲むように四棟の隅櫓を配していた。その乾(北西)の角にあったのがこの櫓である。
 二層(二階建て)で、本瓦葺き入母屋造りの屋根をのせ、腰屋根をめぐらした平入りの建物であり、梁感二間(十二尺)桁行三間(十八尺)の規模である。外壁は柱を塗り込めた大壁で、白漆喰で仕上げている。現状は、初層(一階)の西壁(当時とは方位は逆)中央(中の間)に土戸を引く戸口を設け、初層のこの壁以外の三面と二層の四面には、それぞれ太い堅格子をはめた窓を二カ所ずつあけている。ところが、明治六(一八七三)年に、場内に置かれた東京鎮台高崎分営(十五連隊の前身)を撮影した写真では、初層の正面(東壁)右の間に戸口があり、左の間には同様な窓一カ所が認められる。妻飾りは狐格子で、破風板に懸魚をかけている。
 高崎城の築城は、慶長三(一五九八)年、井伊直政によって着手されるが、その後、藩主は目まぐるしく替わり、元和五(一六一九)年に安藤重信が入部して、元禄八(一六九五)年まで三代にわたって在城し、城と城下町の整備にあたっている。享保(一七一六〜一七三六)ころの著作という「高崎城大意」には、三代の重博が、平屋の土蔵の様でしかなかった乾櫓を二層の櫓に改築したとの記事があるが、これと様式的に見ても矛盾はなく、十七世紀末の建築と推定されている。
 その後、東門とともに下小鳥町の農家に払い下げられ納屋として利用されていたが、県重要文化財の指定にともなって、昭和五十四年この位置に移築復元された。初層の戸口の位置は納屋として使用されていた時期を踏襲しており、屋根瓦は当時の資料によって復元されたものである。両側の鉄砲狭間をあけた塗り込め塀は、修景のためのものである。
指定年月日 昭和四十九年九月六日     
群馬県教育委員会
高崎市教育委員会
群馬県と高崎市の教育委員会による案内
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