『こいぶみ』

 久しぶりの集まりに現れたハナはやはり魅力的で、僕の心は揺さぶられた。忘れていた―いや、忘れようと、諦めた気持ちが再びうずく。僕は出会ったときからハナのことが好きだった。しかし、そのときハナには既に恋人がいて、その恋人のことが好きで、その男のことを話すときのハナは本当に幸せそうに、嬉しそうに話すのだ。その姿を愛おしく感じるのであるが、しかし自分に向けたものではないという嫉妬の渦の中に放り込まれることにもなる。たまに彼女の相談に乗るという矛盾を犯しながら、僕は自分の心を封印することに決めた。そのうち、僕は他の女のコとふと意気投合して付き合うことになり、とんとん拍子にお互いの家族に会い、そのコとの関係は一つの結論に向かおうとしていた。そんな最中、久しぶりにハナを含めた仲間で集まろうということになった。そのとき僕はもう覚悟を決めていた、はずだった。いかにハナを愛おしく想うとも、既にその気持ちは整理され、しっかりと自分が愛され愛を与える関係を築いていく道を選んでいこうと。しかし、その帰り際にハナが打ち明けたあることが、また僕を苦しめることになるのだ。 

 

 そもそもハナとは、あるビジネス系のスクールで出会った。平たく言えば経済系のそのスクールはいろいろな会社の人たちが受講生として集まっていて、その中でも独身で同世代の数人で仲良くなり、たまに受講後に「異業種交流会」と称して飲みに行ったりして親交を深めていった。その会にはもちろんハナもいた。ハナのプライベートな話は「異業種交流会」でもたびたび出てきていたけれども、帰りの電車が同じということもあり、僕は他のメンバーよりもハナと仲良くなっていき、彼女の色々な表情を知ることになったのだ。週に一度のそのスクールの帰り道、僕と彼女は色々な話をした。外見だけでなく、とても素敵な女性だと思った。少し目を惹く外見できちんと人に甘える術を身につけてはいるけれども、誠実でしっかりと自分の考えを持っていた。生意気そうなその横顔に似合わず、人のどんな話もきちんと受け止め、情にも厚いところがあった。そんな彼女に僕はどんどん惹かれていったけれども、彼女には特定の恋人がいた。「彼のことが好き」と彼女は臆面もなく言い、彼とは会ったことはなかったけれども、そんな風にハナに言われている彼を羨ましくも思いつつ、彼女の幸せを強く願った。幸せそうなハナを見ていて、僕は自分の中の恋情を抑えることに決めた。僕の気持ちなんてきっと彼女には迷惑でしかないのだろうと考えて。

 

 僕の心とは裏腹に、その日は穏やかな夜だった。途中下車して飲みなおすために入ったその店はちょっとした立ち飲みのワインバーだったけれども、声を張り上げて語るサラリーマンや飲み方をまだ知らない学生たちもいなかった。ほとんどが友人同士で、ほどよい声の大きさで会話に興じているようだった。

「ほんとはね、もっと早く言おうと思ったんだけど、最近いい女のコがいるって人づてに聞いてたしタイミングも合わなくて、言えなかったんだ。もっと早く相談、というか聞いてもらいたいな、と思ってたんだけど……」

「うん」

「彼ね、浮気してたんだ。というか、本当は私が浮気だったみたい。しかも私以外にも浮気相手がいて……どうも本命っぽいコとは別れて私が本命みたいになったみたいだけど、そんときもそのもう一人の浮気相手とも会ってて……」

 ハナの話はしばらく続いた。要約すると、結果さんざん喧嘩して別れる別れないをしばらく繰り返したあと、もう一人の浮気相手とももちろん断ち切って、ハナが正真正銘本命唯一の彼女としてやり直すことになったそうだ。彼のことは決して許してはいないけれど、好きという気持ちがあるから別れまでは至らなかったのだという。―僕はできるだけ心を落ち着かせようと心がけた。世の中なんて、きれいごとを述べてモラルを意識して正しく生きようとしたところで、それで自分が本当に幸せになれるなんて思ってはいない。彼のような男は何人も知っているし、そういう男が結局ほどよい年齢でほどよい相手と結婚して生活を築いていくものだと思っている。だけれども。だけれども、僕の覚悟、いや、それよりもあのときの彼女の幸せそうな姿が、決してそのままの姿なんかではなかったこと、彼女が深く傷ついたという事実に激しい怒りを感じた。その怒りはやり場のないまま心の中で激しい渦となり、回り続けた。それでもできるだけ冷静に彼女の話を聞き、そして話がひと段落したところで、僕は口にした。とても自然に出てきた、ずっと言えなかった言葉だった。

「ねえ。こんなタイミングで言うつもりもなかったけれど、ほんとはもっと、素敵なシチュエーションでカッコいい言葉で伝えたかったんだけど、僕はハナのことが好きなんだ。会ったときからずっと、今でも。だけどハナにはヤツがいて、とても幸せそうだしそうなってほしいから僕は諦めることにしたんだ。そんなことになっているなんて知らなかったよ」

 ハナの気持ちはわからない。しかし二人の現実からすれば、それは決して行き着く場所のない告白だった。僕も彼女もそれを分かっていて、その先の言葉に言及はしなかった。目に見えない壁がそこにあり、僕らはお互いに幸せを祈りつつ、その日を分かれることになった。次にいつ会うかなんて、もしくは会う機会があるかなんてわからないというのに。

 

 何日も何日も悩んだ結果、僕はハナにメールをした。目に見えない壁、とあの日僕は感じた。決して行き着く場所のない告白、あの日僕はそう思った。しかしそれが何だというのだろう。そもそも、僕はどうして彼女の幸せを願いながら諦めたりしたのだろうか。―悩んだ結果にたどり着いた結論は、自分に対してずっと思っていたことであったし、とすれば、今僕にできる精一杯は分かっていた。モラルがどうとか、ハナの彼氏のような男がどうとかという問題ではないのだ。ただ僕は僕に自信がなかったのだ。勇気がなかったのだ。たったそれだけのことを、難しく考えているのだ。もっとシンプルでいい。乞うのだ。エゴだと言われても、乞うのだ。

「君のことを好きだという気持ちは、彼に負ける気がしない。君の話を聞いて確信したんだ。君のことを裏切ってすごく傷つけた、そんなやつに。それでも君は別れず、まだ彼と付き合っている。僕は君のことを大切に、幸せにする。絶対にする。それは彼よりもなんてそんな相対的なレベルではなく、絶対的に。そのためだったら、僕は他の誰を理不尽にでも傷つける。覚悟を決めたんだ。遅すぎるなんてことはない。ゆっくり考えてくれればいい。気持ちの整理がついたら、どんな結論であれ、連絡をください」

 

 手紙はそこで終わっていた。これはラブレターなのだろうか。ハナは悩んだ。手紙の中にあった話は概ね事実ではあるけれども、「メール」はハナに届いていなかったし、その文章を読んだことも、そのような言葉も言われた記憶はなかった。

―数日の後、散々悩んだ末にハナは携帯電話を手にとり、送られてはこなかったメールに対して、返信をすることに決めた。